本編8:サラとアレスと君とお仕事
暗い。曇天。
厚い雲が空を覆い光は届かず、ポツポツと雨が降っている。ただただ辺鄙な何もない草原。
彼等はそこにいた。黒髪の精霊と茶髪の人間の青年が二人。風が吹くだけの草原に、何か言葉を発する訳でもなく立っている。
離れた雨の当たらない場所には二頭の馬がおり、二人をじっと見つめていた。いや、二人のいる辺り、だ。彼等には何かがある事が分かっているのだろう。
少しずつ、雨が強くなっていく。時折、キラキラと地面と空との境界で点が輝く。青年達のすぐ側は、何故か雨が降っていない。その奥の景色は雨が降っているのが透けて見えるというのに。
精霊は、光る点へ歩む。物体は見えないが、草の合間に何かがあるようだ。
ふむ、と考える素振りの後、黒いコートを脱ぎ、手に巻いている布を取り、人間へ渡す。離れていて、と言い、しゃがんで雫の光を反射する物体へ手を伸ばした。
僅かに顔を背けながら、一思いに手を出す。精霊の指がその【何か】に触れた途端、小さな雷の様な光が走った。その光は精霊の左腕を、肩を、頬を、髪を、耳を、そして片目を焼いた。かけていた眼鏡は片方の支えを失い地に落ちた。
焼けた肩からボロボロに焦げ朽ちた左腕は捥げ、未だ高音を示す音と煙を立てている。焦げ臭さは雨で広がりが遅い。肩口からは血と思われる赤黒い液体が少量流れていた。
離れて見ていた人間の青年は、その姿を見て急いで駆け寄る。その必死な形相を見て、何がおかしいのか。顔面が半分爛れていてもわかる程の笑顔で心配ないさ、と笑ってみせた。
一体断面がどんな有様なのかもわからない程に焼けた肩から、似つかわしくない新緑が芽を出す。それは彼等にとって見慣れた蔦であり、精霊の青年自身でもあった。
何本も何本も、芽吹き、絡み、太くしなやかに。蔓は骨へ、葉は肉へ。色と姿を変え、それは青年の美しく細い腕を創り出した。何度か確かめる様に手を動かせば、何も違和感はなく、なめらかに動く腕だった。
心配そうに覗き込むもう一人の青年の心情も知らず、新しい掌で、顔の爛れた箇所を覆う。彼の長く尖った精霊の耳も、細い蔦が這い集まり修復されていく。掌を退ければ、そこには先程迄と全く同じ。
端正で、若く、美しい、白磁の肌の青年。
「醜い姿を見せてしまった。忘れておくれ」
美しい笑みは、何が起きても変わらない。
もう一度、傷一つない腕に布を巻き、預けていたコートを纏う。人間の青年は地面に落ちた眼鏡を拾おうとすると、そこには角ばったガラスと鏡張りの多角球も有る。
「ああ...それが幻術の正体か。ほら、浮き出てくるんじゃないかな」
雨が降っていなかった場所を見ると、確かに何かが見える。透明な物がそこに有ると認識できる程度ではあるが、それは確かに先程迄はなかったものだ。天上からの雫は、まだ他にいくつか光る点を示している。同じものがあるという事だろう。
「これが、マダムが盗まれた、って言ってた奴か」
「そうだね。妖怪の呪具だろう。さっきの雷は呪具じゃなくて魔法だ。稚拙なおままごとみたいな魔法だね。僕一人焼き切れないなんて」
残りの点へ近寄っていく。それからも躊躇いなしに手を伸ばすが、雷が発せられる事はなかった。
全部で4つ。四方を囲った物を見えなくさせる呪具だと、マダム・マーチャルは言っていた。マーチャルが購入し、他の商人が運搬していた所を襲われ盗まれた。それに憤慨していたマーチャルは自ら探しに来たが、魔導地雷に気がつき探索者を雇うか考えていたのだそうだ。
4つ全ての多角球を解除すると現れる、そこにあった物。
それは石造りの朽ちかけた建造物だった。所々が崩れ、なけなしの屋根が残っている。外壁には名も知らぬ様な蔦が蔓延り、恐らく窓があったであろう場所は穴。二か三階層程で、規模でいえば中々の大きさだ。
入り口と思われる門は、大きく崩れている。雨とは違う、湿り、腐った様な、獣の様な、なんとも形容しがたい悪臭が内部から漏れ出ていた。
「当たり、っぽいな」
「喜ばしくはないけどね。行こう」
「おう」
ーーーーーーー
その内部は暗くカビ臭い。先を行く一人は火を灯した手燭を、後を行く一人は手燭にナイフを手に歩く。
内部の構造はいたって単純であり、入ってすぐに上階へ至る階段と、広めな通路。先ずは一階を探索するため、階段は通り過ぎた。
通路の両脇には、鉄格子の牢が並んでいた。中には何もおらず、鍵も掛かっていない。ただ、確実に何かがいたのであろう獣臭さと血生臭さはこびりついていた。牢によっては血痕の様なシミも出来ている。目を凝らせば毛や、骨。元が何であったかの想像もつかない、干からびた【何処か】。
青年は少々込み上げる嘔吐感を何とか無視し、通路の奥へたどり着いた。
そこには大きな扉があった。通路の幅一杯の巨大な扉。そしてその奥から、何かの気配がする。身の毛もよだつ様な気配。入る事を躊躇わせる、おぞましい空気。押せば容易に開くであろう朽ちかけた木の扉を、息を呑みながら、そっと、二人で押した。
ぎ、ぎ、ぎ。軋む音を立てながら、扉は開く。
その先は大広間、といえばいいだろうか。ただの広い部屋だ。だが、その光景は扉の前で予想していたよりも余程酷い物だった。
「...アレスト、君は上階へ。
恐らく、ここにはもう人はいない。彼とは僕がお話しするから。上は見てくるだけでいい。もし危なかったらすぐに僕に構わず銃を使って、さっさと馬で帰りなさい。いいね?」
「っ、あ、ああ。わかっ、た」
鉄錆。腐臭。惨たらしい死体。人も獣も構わず、四肢が入り乱れて散っている。黒髪の精霊は、後に続いていた茶髪の人間を部屋から出るよう促した。アレストは袖で口元を押さえながら、苦しそうに背を向ける。
「吐いてからでもいい。行かなくてもいい。無理はするんじゃないよ」
目と目を合わせ、最後に弱々しい背中を撫でた。もう一度ぎこちない音を立てて閉まる扉。完全にしまった事を確認すると、部屋の中央に鎮座する彼へ、目を向ける。
この部屋の主だと言わんばかりの風格。
しかし、余りにも酷い怪我を負っている。身体を覆う赤い鱗は、別の紅で塗り潰されていた。
ゆっくりと、大きな呼吸を繰り返す。口からは苦しそうな呻きが時折混じり、どす黒い血も何度か吐いた跡がある。
翼は破れ、角は折れ、指も何本か失っている。剥がれた鱗の下の肉はこそげ、しなやかであったであろう尾は捻り曲がっていた。
爪に残る残骸は一体何の肉かは推測しきれないが、恐らく室内に転がるどれかの一部だろう。正に死に物狂いで、この部屋で、戦い抜いた。
特徴的である四対の目が、一斉に、精霊サラトナグを見つめる。その内の二つは潰れ、もう一つは、異形の目が埋まっていた。
「お初にお目にかかる、八目の竜よ。
色々と聞きたい事がある。だがその前に、あなたの強さに敬意を示し、傷の手当てをさせていただいてもいいかな」
物怖じする事なく、臥せる巨躯の竜へ近寄り、手を伸ばす。その手に、竜は僅かに頭を動かし鼻先を当てた。そして、八つ全ての目を閉じる。
「ありがとう。もうしばらく、ゆっくりと眠っていておくれ」
ーーーーーーーーーーー
一度、外へ出ていた。耐えていた吐き気は、少しずつ収まっていく。清らかな空気とは程遠いが、内部と出入り口では相当重い空気に差があった。
青年は、生まれてこの方竜を見たことがなかった。いや、大抵の国民が見た事がないはずだ。
彼等は時折この国の上空を飛び、どこかの山の頂上へ巣を作り、子を育てる時にだけやってくる。
常にいるわけではなく、いたとしても接することはまず無いのだ。彼等は自由な空の眷属であり、強大だ。いわば共生に近い。
そんな彼等が、何故このような場所にいるのか。何故、あんなにも酷い怪我を負っているのか。それは青年には分からなかった。もしかしたらあの長寿の精霊なら分かるのかもしれないが、青年にはまだ、あの重圧と死臭の中にいる事は出来なかった。
ある程度考えを巡らせたところで、決心したように息をつく。上階へ行かなければならない。
再び、じめじめと湿る建物の中へ向かっていった。
階段の先は、一階程汚れてはいなかった。通路の両脇に牢の様な物がある構造は同じだが、その材質は木や石であり、どちらかと言うと小部屋が近い。悪臭が酷くする訳でも無く、血のシミも見る限り無い。
一階程奥では無いが、少し大きめの扉が突き当たりにある。汚れてはいない、温かみのある木の扉だ。
ナイフを構え、懐の魔導銃の存在を確認し、扉を開けた。
「...あんた、誰だ」
その中はいたって普通の部屋だ。石造りで、簡素なテーブルと椅子。本棚には乱雑に書類か何かが突っ込まれている。一階の大広間を見ることが出来る窓が付いていた。
その窓の前の椅子に、女性が座っていた。無機質な目で、出入り口に立つアレストを見ている。
「私はベリヴァロ。あの竜が死ぬまでここにいろと命じられた者です」
「...もしかして、アルファか?」
「はい。アルファです、人間。他に何かご質問はありますか」
無機質で淡々とした事務的な会話。身にまとうのは白い布。先程までとは打って変わって、非常に清潔そうな印象を受ける。
ベリヴァロと名乗ったアルファは、アレストへもう一つの椅子を勧めた。ベージュの髪に赤い唇の美女。全く異質なその存在に警戒をするべきなのだろうが、どうしてもアレストにはそのアルファが悪人のようには見えない。
勧められるがまま椅子に腰掛けて、対話の意を示す。しかしあくまでも、ナイフは手放さない。
「ベリヴァロ、どうしてここに?」
「起動した時にはここにいました。人間と精霊の男が、私に、あの竜を見ているように言いました。あの竜が死んだら、その亡骸を切り刻み、地面に埋めろと。それ以降の指示は受けていません」
「命令したのはどんな男だ?」
「様々でした。少々年老いた精霊が恐らく指導者でした。彼らは妖怪達を連れて何処かへ行きました」
「妖怪?」
「はい。何名かの妖怪です。種は様々です。正確な人数は分かりかねますが、最低でも5人はいたかと思われます」
異質なアルファは、アレストからの質問に言い澱むことなく答えていく。余りにも淀みがないので、正直にいっているのか、考えられていた嘘を言っているのかがわからない。これがアルファにとっては普通なのかどうなのかも分からない。
「...どうして、質問に答える?」
「私は彼等の仲間ではありません」
「仲間じゃないのか」
「はい。私は機械です。私は作られたものです。
ですが、自然と言うものを、命というものを尊ぶ理念は持ち得ています。
あの竜の死を見届ける任はありますが、救う何者かを阻害せよとは命じられておりません。彼らは私を放棄しています。私は、私の中の理念に基づき行動しています」
ベリヴァロは立ち上がり、大広間を窓から見下ろした。その隣に立ち、アレストも見下ろす。
先程まで無かったはずの緑がある。それは竜の身体を支える様に、傷を補う様に身体を這い、その果実を竜は食している。
竜と比べてみれば恐ろしい程に小さな青年は、祈りを捧げるかの様に跪き、その緑をひたすらに増やしていた。
「私は、あなた達を止めません」
「ああ」
「彼を、空へ帰してあげて欲しい」
「そうだな。代わりに、あんたが全部、知っている事を話してくれるか?」
「主人に命じられれば、なんなりと」
じぃっと、ベリヴァロは紅い瞳でアレストを見つける。それは、何かを迫る様な眼差しだ。
少々その紅に驚きながらも、彼女の求めている言葉が、ふと、出てくる。
決心したように一つ息を吐き、その紅に紫の瞳で向き合った。
「ベリヴァロ、今からあんたの主人は俺だ。いいな」
「はい、かしこまりました。ご主人様」
何も逆らう事なく、彼女はお辞儀をした。
彼女は、ここで起きた事を知っている。利用するためでもあったが、余りにも無垢な自然を愛するその目に、酷な事は言えなかった。
「その、ご主人ってやつはやめてくれ。俺はアレスト。多分、実際の主人は下にいるサラトナグっていう精霊になる」
「宣言なされたのは貴方です、アレスト。貴方が私の主人です」
「おい地味に一気に馴れ馴れしくなったな」
感情がない、と言われているアルファ。アレストは、この国でアルファを見るのも初めてだった。
しかし、その割には、今笑っている。声を上げるのではなく、表情を変えるだけの笑みだが、それは人間や精霊、この国の他のどの種族とも何も変わらなく見えた。
問題は、下にいる精霊がこのアルファに怯えるのかどうかという所だ。竜に物怖じしないのだからアルファ程度、とは思うが、そうはいかない事の方が多い。
先ずは、下へ降りようとする。少々、もう一度あの光景を目にするのは気がひけるが、仕方がない。
ベリヴァロ、名を呼んで下へ行こうとするが、ふと、アレストは気づく。大広間を見下ろせたはずのガラスが、植物に覆われていた。
ベリヴァロはそれを食い入る様に見つめている。外側、大広間側から覆われた根は、まるで守るかの様にガラスを覆っている。
気がついた。アレストはベリヴァロを窓から引き剥がす。
その途端、轟音を立てて大広間の天井が砕けた。一階から伸ばされた蔦、もう蔦などとは呼べない何かではあるが、巨大なそれらが塗り固められていた天井を突き、崩したのだ。その破片はガラガラと窓にもぶつかり、ガラスは割れた。落ちた瓦礫はその他の蔦に受け止められた様だ。
雨が振り込む様になった広間から、赤い巨体が浮く。一体どれほどの治療を施せばこんなに急速に治癒するのかは分からないが、少々痛々しい見た目ながらもその竜は確かに翼で飛び、曇天の中へ去っていった。
「交渉するまでもなかったな。満足か」
「はい。よかったです」
「...とりあえず行くか。話は後でまとめて聞く」
ベリヴァロは辺りにあった書類を少量ひっ掴み、アレストと共に階段を降りて行く。
出入り口には既に、サラトナグがいた。少々疲れた様に見えるが、二人を見て笑顔を見せる。
「やぁ。お疲れ様。
アルファかい?珍しいね」
「ベリヴァロと申します。サラトナグ様」
精霊の方から手を差し出し、握手を求める。特にアレストが危惧していたような衝突はなく、簡単な挨拶を交わした。
「彼が言っていたのさ。一人残ってる、って」
「サラ、あんた竜の言葉がわかるのか?」
「ははは、まさか。逆だよ。彼が精霊の言葉が分かるのさ」
竜の去っていった方向を見つめる。三者三様、あの竜にはそれぞれが違う感情を抱いていた。だが、どんな感情を抱こうが、あの存在が強大である事は確かだ。その竜が命の危機に晒されたような状況に陥った。当初青年二人が思い描いていた事情より、事が重大な可能性が頭を過る。
しかし現時点、何も分からないのだ。ベリヴァロから話を聞き、ようやく分かる。全てはここからなのだ。
アレストは口笛を吹き、休憩させていた馬を二人呼ぶ。待ちわびていたと言わんばかりに寄ってくる二人を撫で、黒毛に跨った。
栗毛の女性の方が、気性的にも二人で乗るのに都合がいい。そう思って先に黒毛に乗ったのだが、サラトナグは動かない。何かを考えているようだ。
「...どうした?」
「...ベリヴァロ、馬には乗れるかい?」
「はい。余程の荒れでなければ」
「よし。それならこの子に乗って、アレストと一緒に街へ行きなさい。僕は一度家に帰る」
その言葉に一番驚いたのはアレストだった。きっと一緒に街へ行って調査するものだと。離れたくても離れられないのだろうと思っていたのだ。
そう驚いているアレストを気にする様子もなく、サラトナグな懐から小さな袋を取り出しアレストの手へ握らせた。重みがあり、揺らすと金属の音がする。金だ。
「街へ行って、王城にいる、キリカという女性を訪ねるんだ。あとはその人に任せればいい。
アレスト、いいかい。それが終わったら、お医者様の所へ行きなさい。
君には無理をさせ過ぎた。これは国の問題になるかもしれない。しばらく事態が動く事はないだろう。実家でもどこでもいいから、安静に過ごしていてくれ」
「...邪魔か?」
「誰がそんな事を言った。僕は責任を感じているんだよ」
「...わかった。それじゃあ、ありがたくお暇いただくぜ。行くぞ、ベリヴァロ」
「はい、アレスト。それではサラトナグ様、失礼致します」
「だからなんでそんなに一気に馴れ馴れしくなったんだよ」
「...またね」
「...おう」
最後は、ただ目を合わせただけ。別れの挨拶を告げ、アレストとベリヴァロは街の方向へ駆けて行く。雨は上がりつつある。厚い雲が所々裂け、光が射していた。
「...とりあえず、マーチャルに渡すか...」
二人とは反対方向へ。建物に背を向け、歩き出す。
何があったのか。何があるのか。それは分からない。けれど在るべきではないものがあった。
精霊の背後では、朽ちかけた建物が急激に育つ植物たちによって覆われ、崩されて行く。誰も入らせないように、念入りに。
その様子を誰も見る事はない。
そこには、誰も、何も、いなくなった。