【母の日イベント】置き場もなければやり場もない
人間時代(?)のアレスト君とライネイさんの話。二十歳くらいかなぁ…もうちょっと幼いかなぁ…ライネイさんと暮らして五年とか…そんくらいの頃だね…
ーーーーーーーーーーーーーー
「アレスト」
月の晩、呼びかけられた。振り向けばもうそこにいて、俺の肩をぽんと叩いた。背は幾分か低くて、白髪と言われるのが信じられないような髪をしていた。艶のある銀にしか見えないのは月明かりのせいだったのか。いや、昼間でも彼女はきらきらとしている。眩しい程に、いつだって。
「馬の様子見るのもいいけどね、遅くなるんじゃないよ。まだ育ち盛りなんだからさっ!しっかり色男に育ってくんないとねぇ!」
「…おばさんみてぇなこと言うなよ」
「あたしはもうおばさんだけど?」
「思ってもねぇだろ」
「…そう見える?」
「おう」
「残念ながら本当におばさんだよ」
「俺は綺麗だと思ってるんだけど」
「ははは!!それはありがと。でもアンタみたいな若い男の子に口説かれていいもんじゃない…いや、アンタは誰でも口説くか…」
「そんな事ねぇよ」
「朝帰りがもうちょっと少なくなれば一考の余地もあるけど?」
「俺から誘ってるんじゃねぇし」
「はいはい。そういう事にしといたげる」
彼女は俺に押し付ける様に瓶を渡してきた。中に入っているのはきっと、彼女の好物の林檎の果汁。飲みながら馬たちを撫でている彼女に倣って、コルクを引き抜いた。
…馬達はほぼ全てが、彼女に懐いていた。どれだけ気性の荒い馬も、どれだけ大人しい馬も、彼女の馬も俺の馬も他所の馬も。彼女が来ると一様に嬉しそうに尾を振り自ら彼女の手に擦り寄る。
動物に好かれる奴に悪い奴はいないというが、彼女はまさしくその通りだと思う。明るくて、優しくて、快活で。他者を助けるという事に躊躇いがなくて、どれだけの富を持ってても驕ることがない。彼女の周りにはいつだって笑顔が絶えないし、信頼もされていて、本当に人格者だと思う。
「なぁライネイ」
「ん?なにさ」
「…子供持つ気、ねぇの?」
多分、彼女は、こう言うだろう。俺や馬や従業員が子供みたいなものだって。
「手のかかる弟子が子供みたいなモンだから、持ってる様なもんさ」
ほんの少しだけ躊躇して、こちらを見ずに言った。答える直前までは俺を見ていた、綺麗な朱い眼。
「欲しいのか欲しくないのかって話だよ」
「…欲しいって思ったところで、あたしにはもう遅いから」
「まだ若いだろ」
「そう見えるだけ」
「俺、ライネイならいい母親になると思う。…いい母親ってのがどんなのかは、わからねぇけど、」
俺にとっての本心だった。もしもライネイに子供がいたら、できたら、俺は自分の子供の様に可愛がると思う。
「アンタが、俺の母親だったらって、思うよ」
今度は、俺が目を逸らす番だった。ライネイの事だ。きっとニヤニヤ笑って、らしくないこと言っちゃって、だのなんだの、茶化して来るだろう。…わかってるはずなのに言ってしまった。いや、本心だ。紛う事なく本心での言葉だ。本当にそう思ってるからこそ言ったのだ。でも今、自分の頰が赤くなってるんじゃないかと、やけに暑いなと思いながら考える。
…だが、何もない。肘で小突かれるくらいはあると思っていたが、そんな様子もない。
「ライネイ?…ッ、」
泣いていた。俺の事をじっと見て、朱い眼がいつもよりも光っていた。
ライネイが泣く所なんて見たことがなくて、俺は何か酷いことでも言ってしまったのかと思って、慌てて、他の女が泣いてたら涙を拭ってやるくらい出来るのに、いつもなら出来るはずなのに。その涙がとても綺麗だと思ったから、拭ってはいけないような、触ったらいけないような気さえして、俺がハンカチを差し出す事さえためらうくらいで。狼狽えるしかできなかった。
しばらく見つめあって、いや、眺めあって、か。老馬が一度ライネイの頭を小突いて、ようやく醒めた。俺のハンカチじゃあの涙を拭いてやる事は出来ないとか、そんな事考えていた俺を他所に、ライネイはそこらへんにかけてあった適当な手ぬぐいで涙を拭き始めた。
流石にそんなボロ布で乱雑に拭くよりかは、と気がついて。遅れながらも俺がハンカチを差し出した時にはもう、彼女はいつも通りの笑みを浮かべていた。
「いやー…あははっ!驚かせちゃったかい」
「そりゃあ…」
「あたしも驚いたんだからおあいこ」
彼女には、やっぱり、笑顔が似合うと思った。
「あたしさ、母親の事覚えてないの。育ててくれたのは父親で…その父親もろくでなしのクソ野郎なんだけどさ。父親を反面教師にして育ってきたと思ってる。
…マザーからアレストの話を聞いて、引き取ろうか悩んだんだよ。いい親っていうのを知らないあたしが、若い人間の男の子なんて引き取って…ちゃんと育てられるのかって。」
彼女は笑っている。笑いながら、俺の頭に手を伸ばして、
「あんたのかあさんになれてるなら、それより嬉しい事なんてないよ」
撫でて、くれた。
ーーーーーーーーーー
ライネイの俺への最後の言葉は、面倒かけさせてごめん。いい男になりなよ、だった。俺は、きっと彼女はもう戻ってこない気なのだろうと察して、老馬に乗って街から出て行く彼女を見送った。行き先を告げなかった彼女に俺は行き先を尋ねなかった。彼女にかけられた面倒なんて何一つなかったと思う。俺の手に余る私財は全て売り払っていたし、俺に使えるものは全て遺してくれた。商人として独り立ちするに必要な能力は学んだし、ツテもそのまま使わせてもらえた。いつまで残しておくつもりなのかわからなかった老馬も、彼女が最後に連れていった。
彼女が街を出て数日後。老馬だけが戻ってきた。その老馬は俺の目の前で焔になって消えた。彼は、ライネイの眷属、というものだったのだろう。彼女の死を、俺は理解した。
俺はライネイの死に際に立ち会っていない。
「なぁ、サラ」
「なんだいアレスト」
「ライネイ、覚えてるか」
「…ああ、彼女ね。勿論覚えてるよ」
「ライネイは、どんな奴だった」
「僕より君の方が詳しいんじゃないかな」
「…」
「…そうだなぁ。すごく立派な女性だったよ。精霊としても、強かった。けど、うん。とても精霊らしくない女性だった、かな。僕はそう思う」
「あいつ、幸せだったのかな」
「少なくとも彼女は、精霊としての死よりも女性としての死を全うした。愛する人の腕の中で死にたいって言ってさ。…幸せだったと、思うよ」
「そうか」
彼女は、女としての生き方を選んだ。
あの【ごめん】は、母としての、懺悔だったのだろうか。
「ほんとあんたって曲者だよな」
「どういう意味だいそれは…」
「そのまんまの意味。俺にとって、だけどよ」
「嫌なのかい?」
「そうとは言ってねーよ」
俺が、彼女を本気にさせていたら。
俺が一度でも彼女の事を母さんと呼んでいたら。
彼女は、幸せだったのだろうか。
【了】